(文責: 島 茂人 兄弟)
戦慄すべき聖書翻訳の実態
2010年 3月26日
戦慄すべき聖書翻訳の実態 ―その底本選択の経緯
――毀損された聖書・貶められた聖句――
ニュー・エイジ運動創始者たちが仕組んだ聖書翻訳運動への告発
NASB (NEW AMERICAN STANDARD BIBLE)聖書翻訳委員
フランク・ログズドン博士の「驚嘆すべき悔恨の告白」
教会が1400年もの間、聖書の原典としてきた底本は、伝統的な「マジョリティ・テキスト」(多数派の原典写本群)或いは「レシーブド・テキスト」(受け入れられてきた原点写本群)と呼ばれ、長きにわたり読む人の信仰を培ってきた。
しかし、信仰の先達が代々伝えてきた伝統的・正統的な「マジョリティ・テキスト」「レシーブド・テキスト」に対して、19世紀中頃から異をとなえ、尤もらしい理論武装を巧みに施し正当化した「似て非なる底本による翻訳聖書」ムーヴメントが150年ほど前から台頭し今日に至るまで日本を始めとして世界を席巻してきた。その首謀者たちは何と、現代聖書翻訳の父と謳われてきた英国ケンブリッジ大学のウエストコット教授Brooke Foss Westcott (1825-1901) とホート教授Fenton John Anthony Hort (1828-1892)らで、彼らが唱導し推進してきたグノーシス的聖書写本とも言うべき「アレキサンドリア・テキスト」を底本とする翻訳聖書の拡大推進運動である。そして今や、現在出版され書店の店頭に並んでいる聖書群のほとんどが驚くべき事に、この似て非なるアレキサンドリア底本の類から翻訳された「聖書」なのである!!
一体どうしてこの様な事態になってしまったのか!?
この記事の目的は、その経緯をさかのぼって事実を検証し告発するものである。
現代聖書翻訳の父と言われているウエストコットBrooke Foss Westcott (1825-1901) とホートFenton John Anthony Hort (1828-1892)らが主導してきた運動の結実として彼らの死後発刊された翻訳聖書が「アレキサンドリア・テキスト」によるNASB (NEW AMERICAN STANDARD BIBLEであり
NIV(NEW INTERNATIONAL BIBLE)である。
そのNASBの翻訳事業の主要メンバーとして携わった一人の学者の「告白」からこの告発は始まる。
真実な神の器、フランク・ログズドン博士
http://www.swrc.com/bookstore/pdc/pdc_tapes.html
フランク・ログズドン博士(1907-1987)は敬虔な神の人であった。彼は、ウエストコットとホートらが主導してきた運動を継承するロックマン財団(1942年創設)主導のNASBの翻訳事業に加わり、遂行した責任的地位にいたメンバーだった・・・・。
NASB聖書翻訳が完成し出版された後、様々の疑惑や批判が彼の許に届き始める。ログズドン博士は告白する・・・。
@(私が従事した翻訳聖書NASB)に対する質問が届き始めた頃、私はひどく腹をたてた。他の(翻訳委員らの)人々と一緒になって笑い飛ばしていた・・・・・・。
しかし、その様な中、ログズドン博士は、数々の質問に答えているうちに、NASBにはどこか間違いがあると気付き始めた。
A我々は(NASB聖書翻訳の)土台を据えた。判型を作り、翻訳者の面接を助け、翻訳者と座し、そして序文を書いたのは私だ・・・・・・・・。
困った事になった。私はこれらの質疑の議論に反論できない。間違っている。
ログズドン博士は、この誤りがどのような過程で生じたのかを詳細に調べた。その結果、イエス・キリストの神聖に関わる多くの箇所に、多くの削除があることを発見し愕然とする。彼は、神の前に計り知れない罪責を負うものであることに気付き、戦慄するのである。
B私は最早、これら(NASB聖書翻訳事業に対する疑惑)の批判を無視できないし、反論もできない。削除は恐ろしいものである。非常に多くの削除がある。
ログズドン博士は、NASB聖書翻訳事業の経緯をさかのぼって詳細に調べる中に、その大元である原典の「底本」に行き着いた。そして遂に、この翻訳事業が「底本の選択」の段階から誤っているものであり、この「聖書翻訳事業の底本の選択錯誤」が決定的なものであることを断定したのだった。
そしてログズドン博士は、「神の御前に、如何に大いなる過ちを犯してしまったか」を、悔いて途方に暮れるのである。
ログズドン博士の悔恨の「告白」は続く・・・。
C「ひどい間違いを犯した。どうやって処理したら良いのか分からない・・・」
そして、彼は遂に決心する。
D「私は神の御前にNASBの翻訳事業に対する愛着心をすべて捨てなければならない。私は主との関係が崩れることを恐れている」
遂にログズドン博士は、総てをかなぐり捨て、神の御前にそして公(おおやけ)に勇気を持って「告白」することを決意するのであった。
この驚くべき結論は、敬虔にして思慮深い神の人、フランク・ログズドン博士がNASBの聖書翻訳事業に対してなされた空前絶後の「告白」である。この勇気ある「告白」が神の憐れみによって為され、現代の我々すべての人々に向けて発せられた神の警鐘として注目しなければならない。フランク・ログズドン博士のこの「告白」がなければ、この告発記事も存在し得なかった。
NASB聖書翻訳事業の主宰者である、ロックマン財団The Lockman Foundation(1942年創設)の創立者F・デューイ・ロックマンF. Dewey Lockman(1942-1974)への書状には、ログズドン博士がこの間違った聖書翻訳事業の結論としての訴えがこう綴られている。
E「我々はナイーブ(騙されやすく)であってはならない。
これらすべて(NASB聖書翻訳事業)において、サタンの欺きの働きがあったと考えるべきだ」
しかしログズドン博士の訴えにも拘らず、ロックマンは本質的な主張を全く変えることなく、財団の資力を背景にNASB聖書をテキストとした翻訳事業にその後も邁進し、全世界のキリスト教界にこの翻訳聖書を蔓延させて行くのである。つまり、この翻訳事業は創始者のウエストコットとホート等や、継承者のロックマンとその同調者等、ロックマン財団の手によって意図的に周到に正当化しようと巧まれたものであることが明白である。彼らは疑惑の原典を計画的に理論武装した上に、密かに「底本」として導入を図り、伝統的な従来の神の言葉である権威的な「聖書」を毀損しキリスト教の弱体化を図ろうと意図した極めて狡猾な悪意を抱いて計画的に遂行してきた「確信犯的な翻訳事業」であることが見て取れるのである。
ロックマン財団はそれ以降も「聖書翻訳事業の助成」と称して財政的援助を盾に、NASBをサンプル・テキストとして強要し「誤った聖書翻訳事業」を意図的・高圧的に、ある時には強引に干渉し、係争に持ち込み、また或る時は、詭弁を駆使して神学的、学問的背景から懐柔を試み、神学校では歪曲指導の育成に腐心し「錯誤の翻訳聖書」を今日まで蔓延させてきたのである。呪われた翻訳聖書を用いることによって信徒の信仰を弱体化させ、その結果、現在もなを、無数の信徒らを奈落の底へ落とし入れようとしているのである。
ロックマン財団のHPhttp://www.lockman.org/tlf/tlfhistory.phpによると
現在の彼らの翻訳聖書言語は、
英語はもとより日本語、
朝鮮語KoreanStandardBible,
中国語(北京語=標準語・広東語) the New
Chinese Bible (Mandarin/Cantonese), the New Chinese Bible (mainland simplified script),ヒンドゥー語 the New Hindi
Bible (India),
スペイン語La Biblia de las
Americas (Spanish)等にまで及んでいる。
NIVの発行元であるNew York Bible Society、 現在は International
Bible Society:biblica発行の聖書においては29の言語にも跨っているとのことである。 http://www.biblica.com/bibles/
しかし、神はこの「誤った聖書翻訳事業」告発の突破口の切り札として、
フランク・ログズドン博士という真実な器を備えて下さったのである。
現代聖書翻訳の父と謳われてきたウエストコットとホートの正体
彼らの名前を検索してみて欲しい。読者は彼らの正体に瞠目し、驚嘆されるに違いない。聖書翻訳の父としてではなく、ケンブリッジ大学教授にして、二ユーエイジ運動の発起人、オカルト主義者、交霊術を行う秘密結社「幽霊会」の創設者であり、そしてこれらの運動の指導的役割を担った、厳選された12名の構成員による秘密結社「使徒」の中心的な存在であったと、連綿と書き綴られているのである。同メンバーの一人で高名な経済学者のケインズに至ってはグループ員との同性愛の関係が記載されてをり等々、おぞましい驚愕の記述が続く。
英国教会の弱体化と民衆の絶望――その時代的背景と必然性
18世紀末から19世紀の英国は、産業革命のもと社会構造の激変に伴い、従来の価値基準が一変しようとする時代の主導的立場にあった。産業革命によってもたらされた強大な軍事力を背景として、イギリス政府の特許状を持った東インド会社の植民地化による侵食と暴利。恫喝や収奪によるアフリカを始めアジア未開発国群への植民地化運動はイギリスを先鋒として列強各国が堰を切ったように疾駆狂奔した時代であった。一方本国では、陰鬱にして暗澹、諸霊の跋扈を許していたような世相であり、教会の勢いは衰え、その指導的立場を失って弱体化の一途を辿っている時代だった。丁度ハリー・ポッターの映画のような退廃的雰囲気の時代だったと言っても大異はないであろう。人々は教会の信仰に絶望し、そのカウンター・ムーヴメントとして、キリスト教信仰を捨て、信仰とは対極の霊的即物的世界を欲し、興味本位で安易で刹那的霊的現象を追い求め、それに耽溺していく。背景には思想的後ろ盾があった。伝統的キリスト教信仰の反動として、人本主義、啓蒙主義が謳歌され、ルソー・ゲーテらを始めとしてカント・ヘーゲルに続きマルクス・ニーチェ・等の思想家達が輩出し評価されていた時代で、今日までもその影響の残影は色濃く引いている。
ニュー・エイジ運動の台頭
伝統的教会の支配的・抑圧的・戦闘的な信仰形態にも問題があったように思う。教会の強権による枷(かせ)や腐敗に辟易していた人々の心は、信仰の道に失望しただけでなく、却って逆に、教会に関わる一切をかなぐり捨て、それに取って代わるものに飛び付いた不幸な時代だったようだ。換言すれば、教会に対する絶望は、当時の教会の指導層に対してのみならず、彼らの提唱するキリスト教信仰にも絶望し、更にはキリスト教の伝統を歴史的にまで遡って嫌悪し抹殺しようとした、とも言えるのではないかと思う。畢竟、知識層に至っては、深刻なる傷によって致命傷を負い知略を駆使し周到な戦略を実行したであろうことは想像に難くない。ウエストコットとホートは時代の流れを巧みに読み取り「新しき時代=ニユー・エイジ」なる言葉を創出してその運動に人々を引き入れ、時代を席巻していくのである。そして遂には、決して触れてはならない、教会信仰の根幹である聖書の聖言葉を「骨抜き」にするべく、歴史的資料を持ち出しては巧みにすり替えてアレキサンドリア写本による「グノーシス主義的底本の聖書」を正当化したのだった。その旗手の役割を果たしたのが、現代聖書翻訳の父と謳われているケンブリッジ大学トリニティ校のウエストコット教授とホート教授だったのだ。
「アレキサンドリア写本」とは?
「錯誤の底本」とも言うべき「アレキサンドリア写本」とは、19世紀と20世紀初頭に、エジプトのアレキサンドリアで発見された写本群をさす。旧約聖書のギリシア語訳の七十人訳聖書の多くの巻、そして新約聖書に於いてはキリスト教初期時代のヴァチカン写本、シナイ写本などを含む5世紀に書かれた膨大なギリシア語聖書写本群である。
正統的写本との相違点はNIVにおいて見ると聖書全体で5000箇所、新約聖書の場合においてキリストの神聖に関わる削除だけでも135箇所も見出す事ができる。
NIV御名に関わる削除箇所表
http://www.av1611.org/kjv/nivname.html
新約聖書ヨハネ黙示録最終章、22章18,19節には、聖書の御言葉への人為的な「添付」「削除」がいかに大いなる罪であるかを、あたかも後世の人類に対する遺言のごとく警告を発して黙示録を閉じている。一言一句加えたり省いてはならない聖書の聖言葉をこれ程までに削除してしまうとは、神を畏れない恐るべき愚行としか言いようが無い。このような聖書を用いたとしても神の呪いがあったとしても、神の恩寵に与れる道理がない。そのような御言葉の中に神の力が与えられるわけが無い。勿論その中にさえも神の憐れみは存在するであろうけれども。
グノーシス主義の幾世代を超えた蔓延の系譜と
福音記者ヨハネの遺言とも言うべき手紙――ヨハネ書簡
1世紀後半の地中海東部沿岸一帯は「原始キリスト教」に対して、「グノーシス主義」が台頭し圧倒する勢いであった。福音記者である12使徒のヨハネは、晩年このグノーシス主義との戦いの中で新約聖書巻末の3つの書簡、ヨハネの手紙T・U・Vを記し、グノーシス主義に対して細心の注意を払うよう、繰り返し信徒たちに警告を発しているのである。
「グノーシス主義」とは即ち、イエス・キリストの神聖を認めない、人間イエスを主張する主義で、現在メディアで喧伝している一連の反キリスト・ブームの源流であり、当時は勿論のこと、現在も根強く蔓延っている異端の流れである。その「グノーシス主義」の息のかかった写本が「アレキサンドリア写本」と呼ばれるものであった。
ウエストコットやホート、ロックマン等が、NIV、NASBなど一連の聖書の翻訳事業の正当性として主張している論拠は、発見された「アレキサンドリア写本」が最古のものであるからという理由にしかすぎない。聖書の削除の内容には全く触れていないのである。
更にウエストコットとホートは難癖をつけて奇怪な論理を捏造して斯く言う、「伝統的写本」に関しては、膨大な写本群にも拘らずこれらの写本群が互いに一致しているのは、後世において大規模な調整が行われたからだ、と。このようなこじつけ論理は猜疑心から発した「詭弁」を弄するもので、屁理屈以外何者でもない。
この様な経緯の中で、ログズドン博士はこう断定したのだった。
この誤ったNIV・NASB翻訳事業はロックマン財団がウエストコットとホートらの運動を継承し意図的に推進したものである。
この「誤った翻訳事業の影響」は、新神学の追い風の中、留まることなく広がりネストレ原典にも及ぶ。1904 年発行のネストレ原典5版から「アレキサンドリア写本」を底本として採用したのである。その影響は重大にして決定的・計り知れない深刻な陰を与え、全世界のキリスト教界を席巻し、今日に至っているのである。
神を只管畏れるユダヤ人たちの手によって歴史を貫いて永永として連綿と成されて来た旧約聖書の写本の聖務。しかも完膚なきまでに厳重にしてかつ厳正なる徹底的正確さをもって続けられてきた伝統的な聖務とは何と違っている事か。天地の隔たりである。
「神によって認定された聖書」とは
伝統的に正典とされてきた「原語聖書の底本原典」はこう呼ばれている。
レシーブド・テキスト(受け入れられてきた原典)
マジョリティ・テキスト(大多数派の原典)
これらの原典聖書は信徒の手によって、周到に注意深くそして正確に写本され、また印刷されて今日にいたっている。
そしてそれより各国語に翻訳された。例えばルターによる
「聖書・DIE BIBEL」 そして
「英語欽定訳聖書・KJB(KING JAMES VERSION・NEW KING JAMES VERSION)」
これらの聖書は今日まで揺るぎ無い権威的地位を依然として保っている。
現在の米国では、NIV・NASB翻訳事業に対する疑惑が高まりつつあり同時に伝統的な英語欽定訳聖書・KJBの正当性が見直されつつある。実際、昨年の
クリスチャニティー・トゥデイ誌(ビリー・グラハム系)では昨年のキリスト教10大ニュースの第一位としてNIVの絶版が挙げられている。
クリスチャニティー・トゥデイ誌記事
http://www.christianitytoday.com/ct/2009/decemberweb-only/153-11.0.html?start=1
日本の翻訳聖書の現状
しかし一方、日本の場合、正統的原典から翻訳された新旧両約聖書は
「文語元訳聖書」が唯一与えられているのみである。しかもこの歴史的名訳による聖書が日本のキリスト教界では前世代の遺物的存在として扱われている感がぬぐえない。この文語元訳聖書はノンクリスチャンの故山本夏彦氏を始め非常に多くの明治から平成に至る古今の文人・文化人から、圧倒的な支持を受け、当時の日本人に与えた影響は計り知れないものがあるのである。神の言葉としての権威をもった格調高い翻訳、豊かなる表意文字としての漢字を縦横に駆使し、あくまでも原典に忠実に遂行された名翻訳によって今尚幅広い支持を得ているにも拘らず・・・。
現在発行されている邦訳聖書群はどうだろう。文語改訳の新約聖書・口語訳聖書・新改訳聖書・共同訳聖書・新共同訳聖書は、すべて「アレキサンドリア写本」を底本とする翻訳聖書、乃至はその影響下にある翻訳聖書なのである。
現在書店に並んでいる「文語訳旧約・新約聖書」の中で、「文語元訳聖書」は
旧約聖書のみであって、新約聖書は大正4年に翻訳された「改訳」が採用されている。つまり、現在は「文語元訳旧約聖書」と「文語改訳新約聖書」が一つになって、現在の「文語訳聖書」として刊行されているのである。その理由として、以下のごとく驚くべき証言が日本聖書刊行会のホーム・ページに記されている。
戦時下のことである。銀座の日本聖書協会ビルの6階の書庫には、旧約聖書の文語改訳版の原稿が、発行に備えるべく納められていたとのことである。
(文語訳の改訳新約聖書は大正4年から既に発行されていた。)
東京が空爆に晒された際、日本聖書協会ビルの6階のみが被災し火災となり旧約聖書の文語改訳版の原稿が焼失してしまったそうである。その結果、文語旧約聖書の改訳版の発刊事業を断念せざるを得なくなってしまった、との報告がなされている。
過去百年の間、途絶えてしまった信仰復興・リバイバルの波
キリスト教界に連綿と続く惨憺たる状況―1%以下という基督者人口。戦後既に65年以上の歳月が過ぎ去ったが今思うに、翻訳原稿が戦災に遭った時点で、謙虚に文語改訳事業全体を吟味しなかったのかが悔やまれることである。それどころか、更に追い討ちをかけるように、戦後間もなく「アレキサンドリア写本の底本」による口語訳聖書の翻訳事業が発足するのである。
大局的見地から日本のキリスト教界を歴史的に俯瞰するとき、リバイバルの有無は「神によって認定された聖書」如何に深く関わっているのではないかと考える者である。明治時代以降、あれほどまでに素晴らしい破竹の如きリバイバルの波は何故か戦前・戦後全くと言っていいほどに鳴りをひそめ、GHQ統治下時代から今日に至るまで圧倒的、大規模な大衆宣教諸活動を経ながらも、期待とは裏腹、掛け声のみが空しく虚空に響いては消え去っているような状況が久しく繰り返され、大いなる疑問と疲弊感に支配されている。
大正4年の文語改訳新約聖書の発刊以来、日本のキリスト教界と日本の歴史を振り返る時、申命記28章の「神の呪い」の件(くだり)と重ならないだろうか!? その原因の一つが、もしも翻訳聖書によるものであったなら、逆説的に言うことを許して頂くならば、神の憐れみによって信仰低迷の原因が示された、と言えるのではないだろうか。長期間祈りに祈ってきた信仰復興の「鍵」とも言うべき原因のひとつとして、聖書の翻訳問題が提起されたからである。
聖言葉を魂魄(こんぱく)に刻み付ける。
日本のリバイバルの復活のためにも、原点に戻って神様から、祝福のうちに与えられた「文語元訳聖書」の聖句を身につけて、再出発を心底願うものである。
「文語元訳聖書」といって難しく考えることはない。既存の優れた翻訳聖書群は今まで通りに各訳比較・対照・検討・聖書研究等に用い、日毎のデボーションの時のみ「文語元訳聖書」の聖言葉・聖句を用いれば良いだけのことである。
この聖書は同じ章を朝夕、1度づつ音読し続ければ、やがて聖句がおのずから体得され、やがて口をついて出てくるという不思議を体験することであろう。聖言葉を唱え続けることによって内に火が点り聖霊の光と力が聖言葉より燃やされて立ち上がり煌々と顕現してくるからである。
○なんじの聖言はわがあしの燈火(ともしび)わが路のひかりなり
詩篇119編105節
また文語訳聖書は「口誦性に優れた聖言葉」として翻訳されている。信仰の先達の方々からは、ほとんどの方々の口から、すらすらと自然体に文語訳聖書の聖句が出てくるのを私たちは見聞きしている。そして、その聖言葉には、漢字という表意文字から滲み出てくる「深い味わい」「えもいわれぬ含蓄」「聖句の重厚さ」「聖句の権威」が存在するとは、会得し体験された方々の一致した告白である。
○わが汝らに語りし言は霊なり、生命なり。 ヨハネ伝6章63節
聖歌の文語訳の交読文から始めるのもいいかもしれない。或いは一片の愛誦聖句でも充分である。どのような聖言葉であっても、どんなに短いで聖句も、御聖霊の大いなる力が聖言葉と一体となっているからである。そしてこの聖言葉を身につける事こそが、我々の身魂を護る信仰的・根源的行為のなのである。
○ 若き人はなにによりてか其の道をきよめん。
聖言にしたがいて慎むのほかぞなき 詩篇119編9節
○なんじの言をわが心のうちに蔵(たくわ)えたり 詩篇119編11節
現行の聖書の聖句は何度唱えても腑に落ちて来ない。口に唱えても空回りして、聖句を暗誦することに非常な困難さを痛感し、疲労困憊を覚えるものである。
一方、文語訳聖書に親しんで来られた信徒の方々からは聖句が自然にすらすらと口を衝いて出てくる。聖書の聖言葉をユダヤ人が「行住坐臥」「終日」、口ずさんでいるように、恰も念仏のように同じ聖句を繰り返し、繰り返し身心に刻み込む「デボーション」の時を持ち続けることである。そこに力が加わる。
○ 勤(つと)めて汝の子等に教え家に座する時も、路を歩む時も、
寝ぬる時も、興(お)くる時も、これを語るべし。 申命記6章7節
繰り返し魂魄に刻みつけられた聖句はやがて、まるで鳥がその翼で舞い上るように必ずや絶対者から直接に至高にして至純なる御聖霊の感動の降臨を体験し、その聖なる炎の力が四肢に漲ぎりわたる様を感得し告白することであろう。
○ 然はあれど主(エホバ)を俟ち望む者は新たなる力を得ん。また鷲のごとく翼をはりて上らん。走れども疲れず、歩めども倦まざるべし。
イザヤ書40章31節
そして「聖句」は腑に落ち、五臓六腑に蓄えられ、或る時は生命の奔流となって潤しその腹より満ち溢れ、迸(ほとばし)り出で潤して止まることは無い。
○其の腹より活ける水、川の如くに流れ出ずべし ヨハネ伝8章37節
或る時は、向かい来る敵に対して、主より賜る聖言の宝刀が研ぎ澄まされた両刃の剣と化して主みずから戦って下さる。
○ 神の言は活きて且つ能(ちから)あり 両刃の剣よりも利(と)く・・・。
ヘブル書4章12節
○ 主(エホバ)汝らのために戦い給わん。汝らは静まりて居るべし
出エジプト記14章14節
また或る時は、迫り来る敵に対して神より賜る十重二十重にもなる城砦のような鉄壁な守りで囲まれ、どの様な熾烈な攻撃にも揺るぐことない千歳の磐の砦に囲まれて様を覚えて、詩篇の記者ダビデの告白を追体験することであろう。
○ 主(エホバ)はわが巌(いわお)、わが城、われを救う者、わがより頼む神、わが堅固なる巌(いわお)、わが盾、わが救いの角、わが高き櫓(やぐら)なり。 詩篇18編2節
日本人が文語元訳聖書の聖句に親しみ、身心に受肉化体させて行くとき、神の祝福のうちに天の窓が開かれ、油注ぎの御業が日常的となって来るのを体験するであろう。そして、かつて明治時代のキリスト者たちが圧倒的な主の御臨在のもとに、燎原火の如く極東のアジアに燃え盛った「信仰復興・リバイバル」の嵐が、再び今世紀に更に想像を絶する御聖霊の驚嘆すべき疾風怒濤の大津波が逆巻き、そしてリバイバルの炎がこの言霊の民を嘗め尽くし、主の熱心が為し給う大いなる御業がこの列島を席巻して行くであろうことを確信するものである。
文責 INRI研究所 島茂人 2010/03/04